あるおとこのこと出会ってね
何時間もずっと話したの
とてもたのしくて
ずっと話していたくて
ほんとにずっとたのしかったの。
おかしいよね。
わたしそのこの名前、知らないの。
そんなことを言うあの子に
それはね、恋って言うんだよ、
なんてことを言えるはずがない。
あるおとこのこと出会ってね
何時間もずっと話したの
とてもたのしくて
ずっと話していたくて
ほんとにずっとたのしかったの。
おかしいよね。
わたしそのこの名前、知らないの。
そんなことを言うあの子に
それはね、恋って言うんだよ、
なんてことを言えるはずがない。
David Hammons, Bliz-aard Ball Sale, Cooper Square, New York, 1983
David Hammons
I love this post because these are rare photos of David Hammons’ Bliz-aard Sale, 35 years ago this week.
Everyone should follow Black Contemporary Art, one of my favorite blogs!
ただ“わたし”であるということだけで、
ただここにいたというだけで、
あとは謂われなく、
どれだけか壊され、
どれだけか苦しめられして、
それでも決して
“わたし”を誰にも明け渡すことをしないでいる人たちを
知っているから、
わたしのいのち、
せめて、その人たちのためにくらい役立て、と。

信じる、ということの
ほんとうの
なかみ。
Place where I am is always where I am not.

書いておかなければならないと思って。
この冬は、いつもよりずっとたくさんのnewsを見て、いつもよりたくさんのwordを覚えた気がする。
Obama前大統領のシカゴでの演説を聞いた。これから起きることに備えて、聞く人ひとりひとりを魔法をかけていくような呼びかけ。この人の演説は、いつ聞いても、音声がことばを運ぶ、その軌跡を見るような気分になる。あれらは、必ず行き先には辿り着く。ただ、それを喜んで授かるような人もいれば、勢いに思わず胸ポケットに飛び込んでくるのをそのままにしておく人もいれば、うっかりと素手に受けて慌てて包み紙を探す人もいるかもしれない、とは思う。あるいは、手にしたまま、何に入れたら良いか分からず、握りつぶすか手汗と混ぜてしまうか…いずれにしても、その場にぽいと捨てていくのは難しそう。
2016年末から新年1月19日までは、テレビやSNSを眺める限りバラク・オバマ のコレクションだった。1月20日ですら、そうだったかもしれない。その後しばらくもそうだったかもしれない。でも、innagurationの 翌日と翌々日は、土日だから働かないよ、というのがホントかウソか、週を明けてドナルド・トランプの4年が始まったかんじがみるみるしてきた。いきなりのalternative fact からのスタートだったけれども、'alternative fact'と言う一瞬前のキャリアン・コンウェイの言い澱みは、世界を瞬時にalternative world にワープさせるための溜めだったんじゃないか、という気がじわじわとしている。どっちにしても、彼女の背景のほうは、ぜひ、ハイテクに作られた書き割りであってほしい。
ポートランドでは、manifesto とかwe welcomeと名前のついたポスターが登場していることは来る前から知っていて、是非目にしたいとは思っていたけれども、NW23rdで実際に目にしたら、最後の一文で泣きそうになってしまった。YOU ARE SAFE HERE…これを見てほっとするわたしは、出会ったことのないこのポスターの作者に救われたということになる。もしかしたら、今シーズンのアメリカ滞在では、これまでとはちょっと違う体験をするかもしれないとは、一応思ってきたから。でも、出会ったことのない人にも「あなた」と呼びかけることのできる人たちがいるこの街は、虚構であってもひょっとしたら独立してしまうかもしれないというファンタジーが似合ってしまう。
Golden Globeでメリル・ストリープがCecil B. DeMille Awardを受賞した際のスピーチを聞いた。presidentという単語すら使わず、ましてや個人名すら出さず、’When the powerful use their position to bully others, we all lose.’ と指摘して、hollywoodという領域にいる人たち全てを残らずすくい上げて、わたしたちは戦うでしょ、当然でしょ、とセッティングしてしまった感じがした。優雅で勇敢で経験豊かな本物の魔女。SNLの勇猛さにも毎週感動しながら過ごしたけれども、彼女のあのスピーチは、まさに鬨の声(と言っている人がいて、まさに!と思った)。
そのあとずっと続く報道を見ながら、彼らの体力に驚き、彼らのことばの早さに驚いた。そのおじいちゃんがどんなに分からず屋の頑固者でも(わたしはトランプさんが老眼鏡なしに書類をがんばって読み上げる姿に、ああもう働かなくていいのよ…などと思ってしまうのだけれど)、大統領に自らなった人にどんなふうにも手を抜いたりはしない。それがメディアの役割だからとか使命だからとかそういう感じじゃなくて、本当に戦っているのが分かる。そして、きちんと戦っているのが分かる。どんな瑣末なことでも、公共の場で嘘を述べたら「やーい嘘つきー」と囃し立てたり、「あの人ちょっとおかしいわ」とひそひそして距離を取るのではなくて、それは事実でないですよ、とまっすぐ正面から目をみて反証する。その内容があまりにバカバカしくなっていくので、にやにや笑いが収まらないキャスターもいたし、コメンテーターたちの意見の述べ合いが、親戚の騒ぎみたいになってしまったりすることもあったけれども。そして、何より声が多くて、ほっとした。言われる内容は近くても、色んな人が出て来る。(でも全員専門家で、日本で言うタレントみたいな人たちは出てこない)ものすごい数のいわゆるコメンテーターに、そしてみんな好き勝手言う様に、時々、自己顕示のサンプル画面のように見えてしまうけれども、それでも、それに安心した。ひどく言い合って、相手のことばを退けたり、ぎりぎりの警告をしたり、声が重なってうまく聞き取れなくなっても。
それは、かの有名なサタデー・ナイト・ライブもそうで、いわゆる「お笑い」というのがほとんど弱い者いじめと同枠にしか思えないわたしにとって、ああ、コメディってこういうものなのよねとこれまたしみじみしてしまう。彼らは戦っている。自分たちの場所のために。自分たちの場所は、多くの人々の正に血と涙によって勝ち取られた場所だと分かっているから。それは、自分たちのために勝ち取られたのではなく、わたしたちみんなのために勝ち取られたのだと分かっているから。彼らの場所を脅かそうとしている人たちは、特権を利用して自分の願う世界を実現させようとする人たちだから。メリッサ・マッカーシー(怒りの感情の正しい精霊だと思う)が、2回目にスパイサーを演じたあとのクロージングでちっとも笑顔じゃなくて、それを見た時、この国は、気長に待てば良くなるかもしれないとか、今は過渡期の痛みに過ぎないかも、というような定義は持っていないんだな、と思った。そして、彼らが自由というものを侵食するものならどんな小さくても、絶対に境界線を越えさせない、という臨戦態勢に入っているかんじがした。わたしの国では、境界線自体が曖昧で、ある程度侵食されて気持ち悪くなってみてからじゃないと、いろいろ分かれない…という不幸がある。
就任式の日の午後に始まった反対集会には、てくてく歩いて行ってみた。広場の手前の通りのところで、わたしはもうだめだった。そうだった、わたし同一方向のエネルギーが凝集発散される集団には、当たっちゃうんだった…というのを思い出しつつ、泣き出しそうなのを我慢しながら、年中傘を差している銅像おじさんの向こうのほうへ移動したけど、ことばは何も出てこなかった。ただただ見て、見渡すしかなかった。わたしは、わたしなりに人間の尊厳ということを何よりも大切に思って、そのために傍目には要領よくない生き方の人だけれども、それでもああ、わたしはこの仲間に入る資格はないなと思ったから。わたしは、ここにいることは出来ても、仲間には入れてはもらえない。そこに集まるエネルギーの性質は、自分のために戦うことが、他者を守る盾となることを分かっているかんじのもので、それは、この国に生まれた人たちは生まれながらに自由と平等で、それが侵害されて戦うにしても、侵害されることなく謳歌するにしても、どっちにしても、生まれた時から当然持っているということが、観念やファンタジーではなくて、事実としてある。わたしの国には、憲法というものにそれは書かれてあるけれども、それ自体の味が分かる人は非常に少なく、どんなものを目指しているかもわらないままに、不断の努力ということをしないと自由も平等も息を吹き込まれることはない。自由と平等がデフォルトじゃない上に、それらを採用する作法はそれ用じゃない。私たちにできることは、デモのために大群衆が広場を去った後、落ちているゴミを拾うという、なんとも日本人的なことだけで、でも、それをしないと今この世界に生きているという切符を買いそびれてしまいそうなそんな気がした。別に、そんなことをしなくても切符は売ってもらえるのに。そんなわけで、翌日のとっても楽しそうな歴史上最も幸福なデモだったかもしれないwomen’s march には参加できなかった。
そんなこんなで、ずっとテレビっ子になってしまった今冬。iPhoneのお陰で分からない単語を調べるのが、すっかり楽ちんになっています。
自由を手にするプロセスというのは、おそらくは様々にあって、けれども、自分の自由がどこかに行ってしまうそうになる場合は、それを持っていってしまうものから取り戻す作業が必要になる。その取り戻す作業を、「勝ち取る」と表現する場合は、戦わないといけない。そして、今回は、アメリカの人たちはこうやって戦うのかーと感心してしまった自分に気づいたりした。あまりに自然に戦う、あるいは勝ち取ることが標準の作法であるような人々の姿を眺めながら、もしかして、私の国の先人たちも、はじめて人権やら人間の尊厳やらの概念に触れた時、こんなかんじだったのかしらーとふんわり思ったり。それが例え(一応)既知のもの、既得のものだったとしても、すでにそれを稼働させている人々の様を間近に、身近に見る・触れると、自分がどれだけそのことについて慣れていないか、分かっていないかということが見えてくる。独立した個人として必要な諸々をすることにかなりの時間を使っている人間だと自分のことを思うが、集団として、あるいは文化として…だと、私たちの国には、まだ民主主義の体験はないのだなとこれまで「思っていたこと」を、体感的に確かめる冬だった。
そろそろ日本へ移動するわけだけれど、わたしなりに理解している「他者とともに生きる」ということのプラクティカルな覚書。普段の自分の表面化するセンスとして、まずしないことだけれど、書いておかないとつぎが来ないなと思って。
・英語習得の必要性というのは、教養としてではなくて、既にサバイバルのレベル。
・世界のどこかに最も優れた民族や国民がいるという発想そのものが危険。そして、この考え方はとても簡単に肌の下にまで入ってくる。
・新しい時代の人たちは、自分自身のアイデンティティのリストに、国籍・民族・人種を入れないほうがいろいろ、あとで楽ちん。
・民主主義の行動の指向性は、勝ち取る/戦うなのかも。(取り戻す、という場合は、民主主義でない方法も探らなければならないのかも。どんな方法?不断の努力バージョンの中身は?)
・私たちの国の、多様性に対する歴史は、とってもとっても浅い。そして、経験が足らない。ものすごいビギナーなのにも関わらず、憲法という下駄を履かせてもらっていて、勝ち取る戦いをせずとも済んだ(別の戦争はしたけど/だから不断の努力?)。
・基礎学力はとってもとっても大切。それは学力とも学歴とも、ましてや偏差値とはまったく関係がないもの。
・直接情報源に当たる。情報は自分のために使う。情報を拡散する役割はその情報を扱う専門家に任せる。みんなに知ってほしい情報がある場合、自分はなぜそれを拡散させたいのか考える。
・「みんなに考えを知ってほしい」「みんな、こうなったらいいのに」という考え方は、あんまり役に立たない。みんなが同じになることで便利になることはあるかもしれないけれども、失われることのほうが多い。みんな自分で考えるしかない。親切することで、その人自身が考える機会を減らしてしまうという理由はまだ表層的で、"みんな"の幸せを左右したり背負ったりするほどの覚悟や使命を持てるほどの体力気力はあるか。
・自分が言うことは、やれることだけにする。実在することについてだけ。じゃないとことばが暴走する。今はことばが暴走して、ないものがあることに、あるものがないことになっている時代。
折に触れ、‘ちがう、そうではない’と、感じることばがあります。
それを聞く度に沸く感じは、‘そうなのかな?’といううっすらしたものよりもっと強い、退けてそこに置いておきたくないような、ざわつき。
そのことばの、不適切さを指摘して、より適したことばを持ってくるのがよいのだろうか。でも、それであれば、おそらくは「そのことばではなく、このことばでしょう」とすぐに応じることができるはず。なのに、代替えのことばが出てこない。
そうやって、出会う度、しばらくじっとそのことばを見つめて立ち尽くしてしまうような、そういうことを(数年のうち)何回となく繰り返して、ようやく(このことばは、見えないものを見えることにしているのだ)ということに気づいたのは、つい最近のこと。
そのことばは、「自己肯定感」。
専門用語としての定義や使う側に意図されるものがあることは、十分承知しているつもりではいるけれども、それでも、このことば自体の組成の不安定さと、目にする頻度とを並べて、戸惑ってしまうのです。
このことばは、自己を肯定しているかどうかに焦点をあてる、ということを通して、自己を肯定していない場合があるという想定を導きます。自己を肯定していない、それは、言い換えると、自己を否定しているという、さらなる想定が許されてしまうので、結果として、自己肯定感ということばを向けられる対象者を、実際のところ本人がどうであれ、自己を否定している可能性がある存在として見做す余地を生成してしまいます。これは、このことばを介して、支援者側に生じること。
支援を受ける側に転じて、自分が「あなたは自己肯定感がありますか?」と尋ねられたと想像してみれば、肯定と否定の中心に立って、今自分はどちらだろうと判断するのが難しいことばであることがわかります。今自分は自分をどの程度‘肯定’しているだろう、と自問する導線しかないのです。(わたし自身は、ここで「肯定していないとだめですか?」と切り返せる学習者であり続けたいわけですが)「否定」というそれ自体で独立して働く反意語を持つ「肯定」を含む「自己肯定感」ということばは、中立的で柔軟な性質を持つようには構成されていないので、当事者の自己評価の指標としては使えないのです。
支援する側、支援を受ける側両者を「自分に肯定感を持つべきである」という価値的土壌に乗せる作用を持ち、さらに、支援の領域にかぎらず、使う側に即座に他者を評価する権限を与える性質を持つこのことばは、人間関係における平等性や対等性を容易に崩します。
「あの人は自己肯定感が低い」「子どもの自己肯定感を育てるには?」「自己肯定感を高めよう」…結果として、こういった用法を導き続けていることに疑問を持たずに、少なくとも当事者主体を標榜する支援者たちは、自分たちの使用することばのリストに、このことばを加えたままにしておいていいのでしょうか。
そもそも、自己は、肯定も否定もできないものです。いまここにあるから。
例えば、自分自身に対して、何らかの価値観を反映させるものとして、「自己評価」ということばは使用可能です。時に応じて、今日のわたしは、いい感じとか、やな感じとか、ここが足りないとか、自己評価することは、次どうしていきたいのかを自ら検討する手立てとなります。あるいは、「自己効力感」ということばがあるそうで、これもやはり、他者や対象を設定することによって得られる結果を受けた自己への評価なので、使用可能だろうと思います。いずれも、自己は前提されたものです。
一方で「自己肯定感」ということばは、そこに自己があるかどうかという、確認すべきでないことに手を伸ばそうとします。すべての人に等しく、あることが前提によって成り立っている「自己」は、ひとりひとりの命の中に埋め込まれて見えないことが自然状態です。どんなに悩み苦しみ、バラバラになってしまいそうになっても、あるいは、バラバラになっても、生きている限り、そこに「ある」のです。「ない」ということを持ち込むことはできません。
それを、自問させるだけなく、他者が外野から問うことを、このことばは促します。すでに十分に自分をやりきって、日々を生き抜くひとりひとりに、いとも簡単に「それでいいのか?」と問います。大げさに聞こえるかもしれませんが「人間の尊厳」ということと照らし合わせて、このことばは、もっと吟味されるべきものではないかと思います。
支援の関係は、あなたはそのままでいい、ということから始まるものなのではないのでしょうか。今のそのあなたと関係を築くところから、わたしは始めたい、というものなのではないでしょうか。
出処の曖昧なこのことばが使われる場面に出会う度、わたしの中では、次のような読み替えが置きます。それは、「あなたは自分にもっと自信を持っていいのだよ」ということだったり、「あなたは大丈夫だから、さぁ顔を上げて、こっちを見て」ということであったり。今このことばを使った人が、本当に言いたいこと、伝えたいことはきっと別にあるのだ、と。
It’s bit difficult for me to believe people who use a word ‘authentic’.
Authentic people don’t use ‘authentic’ to express themselves.
I don’t want to hear the word ‘again’, any more.
It makes things exist, even though they had never been here before.
あの人もあの人も「再び取り戻す」と言う。
どれもこれも、過去にあったはずの無いものたち。
それを、あったことにして、ここにあるようにする、という。
それは、
ことばを使って時空を歪める、
最もしてはいけないことのひとつではないか。
For my young friends.
This infographic sheet is good to know.
Internet is essentials for our life.
Use informations to make your daily life nice & wondrous.
Don’t forget your daily life is just made by your body,your spirit and your words.
* My thoughts below…. but not precise translation from above.*
このインフォグラフィックは、IFLAが発信しているもの。IFLAというのは、International Federation of Library Associations and Institutions(日本語にすると、国際図書館連盟とのことです)
ごくごく普通に生活している人たちに、今やこれはすごく重要。
今や、インターネットはもう欠かせないものです。
でも、案外と頼るのは、不安だったり、心配だったり、もっと情報が欲しい時、そして調べた結果、もっと怖くなる、もっと不安になる、もっと心配になるということも、結構ある。だから自分自身の野生の勘もしっかりつかうことを忘れずに。
いつも気になっていたこと、まとまっていて、流れてきたのでリブログしておきます。ちなみに、以下は、私のことばで書き起こしているだけで、きちんと翻訳しているわけではありません。嘘は書いてないけど。(気になる人は、↑自分でちゃんと読もう)
【このインフォグラフィックに書かれていること(だいたい)】
・情報源は?;情報発信している人たちのミッションや背景を確認する。
・記事全体を読んだ?;見出しだけで分かったふりをしない。
・どんな人が書いてる?;実在している人なのかも含めて確認すること。
・裏付けはある?;書かれている情報は、内容と辻褄があっているかしら。
・日付は?;今流れてきているからといって、最新ニュースとは限らない。
・ジョークではない?;なんか変だな、そうなのか?と思ったら、サイトや書き手をちゃんとチェック。
・思い込み、思い違いはない?:自分自身の考えや価値観が判断に影響を与える可能性も常に忘れないこと。
・専門家に尋ねることも忘れないように。;図書館の人も頼れるし、事実を確認するためのサイトもあるよ。
(出典: maryhelencochranlibrary)
願うことの実行のために他者を使役する人々と
自分のからだとこころとことばを正しく所有しようとする人々との
拮抗する糸の僅かな弾みでしか
世界は進んでいかないみたいだ。
撓んだ糸は推力を持たない。

ここ最近のディズニーの強いお姫様路線は、
女性の強さがテーマになっているのではなくて、
男性たちがもう、女性を守り養う役割をしなくていい、
自分の好きに生きていいのだよ、という読み替えにはならないかしら。
I found myself standing at the end of big crowd of protests,
I had no word to say.
I felt I had no right to say something because I was born in a country where the people get into consuming others,freedom and peace.
自分のことが好きか嫌いか、
というのは
なんだか変だなと思うの。
自分の外に出られるなら、
対象物として、
好きか嫌いかの話はできるかもしれないけれど。
好きな自分になろう、というのは
だから、つまり、
どういうことなんだか、よくわからない。
それは、
自分以外のものに
なろうという話よね。
自分を好きになろうと呼びかけてくるものとか、
好きな自分になろうと呼びかけてくるものとか、
自分のことは好きですか?と訊ねてくるものとか。
どうぞ、
わたしのことは
お気になさらず。
自己認知はどうあるべきか、という話の以前に
そういう論理破綻している言説のために割く時間が
わたしには、ないのよね。