Probably the most important thing I learned while filling in as an art director:

Seeing how desperate you are as an art director, when you put your trust in an illustrator - has really changed my whole perspective. And also I realized that being on time and doing professional work is 98% of what [being an illustrator] is all about.

And every once in a while you do this one great piece where the stars align and maybe it gets into American Illustration or Society of Illustration or CAA but that’s not what makes your career. I was always trying to shoot for these fantastic super-quirky weird concepts and I didn’t realize that so much of it is being professional - about being somebody that an art director can put their trust in.

Interview with Christoph Niemann, Escape from Illustration Island (via drawnblog)

(samsketchから)

(出典: fake-diamondsyellowandotherinspiringstuffから)

終わるのを見越して

失敗するのを見越して

何か備えておくなんて

どうやったらできるのかしら。

終わるならはじめなきゃいいし

失敗するならしなきゃいいのに。

「おまえは、そいつの人生全部、背負う気か?」

ある人を、どのように支援していくかの話し合いの場で

浴びせるように言われた、このことばを

時々思い出します。

まだ、本当には自分の人生が始まる前。

他者と自分の境目が分からなかった頃。

「支援の仕事」ということを考えたときには

必ずしもこのことばは、正しい見方を表しているとは、今も思わない。

でも、言われたときの白くなる感じ。震える感じ。

それは、決して忘れることなく、わたしのなかでまだ続いてる。

誰も自分の人生以外持って生きては行けない。

それは、どんなに信頼している間柄でも。

どんなに離れがたい、ほとんど何もかもが重なる他者であっても。

どんなに好きでも、わたしは、あなたにはなれない。

あなたも、わたしにはなれない。なってはいけない。

また、決して分かりあってはいけない、とも思う。

ひとりのからだある存在として、自分のことだけをする。

ただ、それは閉じていくこととは違う。

“ひとり”をきちんとていねいにすることは、

世界のすべてにつながること。

自分しか、頼りにできるものはなく

そして、世界がその時々に、どんなかたちなのか、は

世界の側にしかない。

今なら、

わたしに向けて怒鳴りつけられた

あのことばは、

あの人の生き方の

激しく身を削るような部分が言わせたのだと分かる。

そして、なぜ、わたしに向けられたのかも。

そして、なぜ、いまも、わたしに残っているのかも。

totalimmortalbeloved:

Banksy on Advertising. via NewsToday.

totalimmortalbeloved:

Banksy on Advertising. via NewsToday.

(出典: nevver)

kojiarakiartworks:

Daily life and every small thing is the gate to the universe :)

元気だねー!

kojiarakiartworks:

Daily life and every small thing is the gate to the universe :)

元気だねー!

「よしだそう」のこと

「対話の学校」と名付けられた取り組みをはじめて、半年近くが経った。

私を、その取り組みの最初の仲間として迎え入れたのは、吉田創という人。

彼は、対話的文化の中で育ち、それを知らないまま飛び出し、

そして、またもとの風土の中へ、自分の力で戻ってきた人。

まるで、ぐるっと正確に、地球を1周するかのように。

知ってか知らずか、その回帰する旅の始まりで

私は、彼が発見した、最初の村人。

私はおそらく、時に水先案内人として

時に秘密の鍵を手渡す人として同行してきた。

おそらく、これからは、第2章。

明確なミッションと

ゆるやかなつながりの中で、

ひとつづきのものとして人々が集まり

仲間が増えていく。。。。。

たぶん、そんなふう。

彼のおもしろさは、

そんなふうに、おそらく仲間が増えていくだろう、ということを想像させるところ。

自分自身の影響力の強さとは別に

彼は、いつも他者にひらいている。

彼の中の経験と情報の量はとてもたくさん。

その時々にひらめいたり、考えていることもたくさん。

それらは

ひらいたところで

売り切れになることはなく、たぶん、自分もどのくらいあるか分かっていない。

そういう渦の集まりのような人であることが

関わる他者を巻き込んだり、その人自身を渦にすることもある。

それをおもしろい、と思う人もいれば、

少し怖いと恐れる人もいる。

たぶん、時々は、

これまで体験したことのない、渦巻かれる感覚を楽むようになる人も。

たぶん、私自身は、

しばらくの間、よしだそうの渦と、それに触れる人の側におきる渦と

そして、その他の渦とをどれも眺めつつ、

時々、それを鎮めたり、

時々それを掛け合わせて次の大きさに変えたり

離れていく渦を見届けたり

そんなことをしていくのかな、と思う。

ひとつ、わたしにとって大事なことは、

彼の巻き起こすことたちが、いたずらに。ではなく

彼の歴史の必然のように、

他者にその文脈は分からなくても、おきているだろうこと。

それは、一生懸命とか誠実とか、そういったことばで置き換えられる気がしない。

むしろ、忠実…?

彼の場合、

他者とともにあることは、選択することではなく

彼にそもそも備わっているもの。

自分への忠実さが、「他者とともにある」ということを

常に伴って、立体的。ダイナミックなかんじ。

その当然さ加減が、

信頼とおもしろみをもたらす。

しかも

そこには不可逆性も加わって

自分自身を大切にすることは、他者を大切にすることでしかないということが

自分を大事にできないと他者も大事にできない、ということと、同義にならない。

つまり、そこに大切にしない、という選択肢はない。

彼にとって、自分を大切にしない選択肢がないことは、

彼と向き合う他者が

自分を大切にするほうへとひきずり出されることへとつながる。

時には、彼の意図とは別に。

彼自身の意図や自覚を越えてしまう影響は、

だから、時として、そこにいる人達にとっての危うさになったり、不安定さにもなったりする。

ただ、そこで手加減するよしだそうを期待する他者がいないことも、

また、わたしにとっては面白いことなのだ。

だから、

それらをまるっと、

彼と彼に関わる人達をまるっと、

(もちろん、ひとりずつきちんと)

大切にする。

よしだそうとかかわり、彼自身を大切にしようとすることは、

たぶん、そういうことなんだと思う。

たぶん、わたしの今の役割で、わたしができることは

そういうことなのではないかな、って思う。

それが、彼と出会うことで私に起きている渦なのだろうと思う。

(これからの予言のために。そう記しておこうと思う。)

体験を熾す:海士での体験

(遅ればせながら、2010年の秋に隠岐の島・海士町へ行ったのでした。そのこと。)

隠岐・中之島は、承久の乱後、後鳥羽上皇が流された島として知られている。

2010年の秋にそこへ行き、

後鳥羽上皇のうたを前にして、私におきたこと。

今でも、鮮明に思い出すこと。

何度も書くかどうか悩んで、やっぱり書こうと決めた。

それが以下。

「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」

隠岐神社の境内にある石碑の中に

このうたをはじめて目にしたとき、

私が感じたのは「何かに迫られる感じ」。

それは、最初、私自身がそこに、地面に足をつけて立っていることを自覚するように要請されたかんじ。

そのあとに続いたのは、胸が空くような愉快な気持ち。

それは、ある種の確かさから来ているように思われた。

自分が自分の任命者になる…

誰に望まれるでもなく、

誰に指定されるでもなく、

そもそも、誰の許可も必要としないもの。

そのような確かさ。

どんな場であっても

自分が自分であるということの

当然かつ自然な自尊。

自信という、平面的な関係性のことばでは言い表せない

温度と量を感じさせる確かさ。

それらは

年月を経ても、劣化することなくそこにあり

あるだけに足らず

未来を志向するベクトルとして

絶えず読む者を貫く。

訪問者として石碑の前に立つ私は

その矢に穿たれ、

瞬時に詩と大地と時との三角形の中に組み込まれしまった。

詩とあるいは後鳥羽上皇のことばと私の関係でもなく、大地と私の関係でもなく

「この詩が謳われたこの島で、いまここにいる私」として。

そしてその瞬間に

この島で拓くべき自分の感覚が

適正にチューニングされた感じがした。

それによって、私自身は

その旅への期待からも解放され

時とともに過ごしていく中庸な受け皿に乗った。

感じるものを、それを感じる時に、感じることができるように

仕立てられたのだと感じた。

それは、まるで後鳥羽上皇から

招待されたかんじ。

時を隔てて、

島の外から来た私はまさにこの詩の矛先。

ただの訪問者から、

そこにどうあるか、どうふるまうかを

試される者へと瞬時に変化した。

ただし、わずかなことばで

自分のありようを表現する古人の機知と感性には到底及ばない、

とるに足らない相手。

それが、

石碑の前に立つ機会さえあたえられ

強さと厚みのあることばを通じて、

今ここにいる私を十全に感じ取れるように瞬時に仕立てられた。

せめて、五感だけは十全に動かせるようと仕立てられ

おまえは何ができるのか。と。

自分の十分な遊び相手になれるのか。と。

私にとって、

海士のイメージは、“今来る者を問う島”。

今、生きることだけでなく

時をどう越えるかを問うてくる。

それは、関係の問いでもある。

わたしがここでしたことを、あなたはどうするか。

そう問うてくる場所。

後鳥羽上皇のこのうたの正しい解釈を

私は知らない。

でも、私にとっての

海士町での滞在は、この歌の歓迎あるいは祝福なしには

ありえなかったと、今でも思っている。

kojiarakiartworks:

いろんな、
いろんなが、
あって、
かさなって、
いろんな、
いろんなが、
うまれてくるのさ:)
気合・気愛で、555!!!
伝説のアラキ:)

kojiarakiartworks:

いろんな、

いろんなが、

あって、

かさなって、

いろんな、

いろんなが、

うまれてくるのさ:)

気合・気愛で、555!!!

伝説のアラキ:)

transmodevirus:

Kurt Vonnegut. November 11, 1922 - April 11, 2007. 
“And, where there’s life— There is life.”
Happy birthday.

transmodevirus:

Kurt Vonnegut. November 11, 1922 - April 11, 2007. 

And, where there’s life— There is life.”

Happy birthday.

(出典: mrlogosmrfbから)

新しいライフサイクルスタートの日。

その前日の恩師の訃報。

それは、
多くのものを与えてくれた
先達たちへの恩返しは、
彼らと同じように
怯まず、臆さず
未来たちへ働きかけることと、
実感した日の翌日。

過去と未来の中心に
正々堂々立ちながら
できることをする。
やれることはやろう。

今、この道筋に来たことは
何かの縁でしかないけれど
そこで受け入れられ
育てられたということそのものが
わたしへの預言と思う。

これまで以上に
わたしの中のものを使う時が
はじまると感じる。

それらがより十全に機能するように
日々を過ごしたい。

それは、未知へと乗り出すこと。
やって来るすべての一瞬に
きちんとはじめまして、と
あいさつしながら、
仕事を積み上げ
前に進むこと。

いつもいつもおおらかに、
時に友人のように
時に見事な職人として
私を見守り、育ててくださった
先生のご冥福をお祈りいたします。

だれもができる仕事。

であると同時に

だれもができるわけではない仕事。

そういう仕事をしたいな、と思います。

今福龍太の「ミニマ・グラシア 歴史と希求」読了。
なかなか時間がとれなくて、長々と読んでいたけれど
今この時期にこれを読めている、ということそのものが
私にとってミニマ・グラシア(最小限の恩寵)。

「(略)恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしか、入っていけない(略)」

ヴェイユのこの引用。

わたしは勇気がないから前後は引用できないけど

すくなくとも、ここでいう“真空”は、

ここ最近流行っている漢字三文字の身辺整理や、

達観した風情で「手放す」と言ってみたりするような

個人の自由意志に基づいた状態のことではない。

そう言って

気づけば、

さしだしていた両手に降りてきたグラシアを感じつつ、

もったいぶってそれはことばにせず。

そして、

自分にだけ「よくがんばりました。まる。」って言う。

ようやく、ようやく。のことだけれど。

それにしても、今福さんの筆致は、私のしょうに合います。

見ること、語ること

・・・読書メモ:今福龍太・「ミニマ・グラシア」

***引用されている「イーリアス」の一説。

叙事詩は、詩人が世界形成者の力を発揮し、万物に正当な分け前を与え、すべてに表現を付与することを要求する。創造に際して(創造主)が示した深遠な普遍公正さを詩人は備えていなくてはならない。叙事詩においては、まだ根に土をつけたままの植物の如き人間が提示されなくてはならない。

***

とても示唆的。

関係的成長について語る時、

“自分がもっている相手についての情報を渡すこと”

(業界的にはフィードバックなんていいますが)

これは常に記述的であることが求められる。

時々それは「客観的に述べること」と理解されがち。

でも、それは、人間のすることに真に「客観的」なものなんてあるのかしら。

という矛盾といつも手を繋いでいる。

そもそもこれは客観的かどうか?とジャッジしてる間に時間は過ぎるもの。

それよりも、

他者には証明不可能な「徹底した主観」の集合なら

場に、あるいはそこでの関係に差し出していくことは可能。

しかも、瞬時に。

主観なのか客観なのかという縦方向の視点ではなく

どれだけの視界をもっているのか。という横方向の視野。

「ここには、私には見ることのできないことも起きている」ということまでも含んで。

見えていないものは、見えていないと言い切るその瞬間の

その直前まで、見ているのか、ということ。

語るためには、見なければならない。

語ることと、見ることとを同時にしてはいけない。

せめて見えているものに価値も意味も与えないためにも。

あるいは、見ることに誠実だった者にだけ

語る力が宿る、という言い方もできるかもしれない。

・・・読書メモ:今福龍太・「ミニマ・グラシア」

「いまだ殺さざる力」という表現。

それは、つまり対象を、いやおうなく生きていない方向へと、死へと追いやる力。

対象は、そこにあるその一瞬、そして、どの一瞬も本来何者でもない。

けれど、私たちの意志は、

目の前にあるものを

「いまだ抱かれぬ者」でもなく

「いまだ語られる者」でもなく

「いまだ殺さざる者」と指定することを通じて

その先を作り上げる。

私たちは常に選択の上に乗っている。その自明の中

目の前にあるものへ、どのくらい予言的でないまなざしを向けられるか。。。

私たちは、ことばを身につけている。

だから、私たちはどのくらいにも万能になれる。

ことばを使って、どのくらいにも世界を描写していくことができる。

たかがことば、と言い逃れる無神経さが世界をこんなふうにしていると

言うことだってできる。

そして、

自己へ対する予言に忙しく、

他者へ対する予言に慎重になってこなかったことでもあるようにも

思える。